2008年6月7日土曜日

「蔵に棲む鬼」予告編

「おねえちゃん……」
暑いよ。寝ていられない。
私はうめくと、薄い掛け布団を蹴り飛ばした。
暑い。寝乱れた寝間着から見下ろす胸に、月の光を受けて汗の玉が無数に光っている。
廊下の障子戸はあけっぱなしだ。ときおり、庭の木の陰のあちこちで小さく点滅する無数の小さな白黄色い光は蛍。小さな電球の明かりにぱたぱたと蛾が舞っていた。
雨戸も閉めずに、なんて不用心だ。
私たち姉妹の住むこの小さな村は全員、顔見知り。よそ者が入って来てもすぐわかる。犯罪なんて、私が生まれてこの方、一回も起きたためしはない。それどころか、へたに用心深くふるまうと、「何か隠してる」と勘繰られかねないような田舎なのだ。
だから、うちを含めて、どこも玄関に鍵をかける習慣はないの、と昔、姉から聞いた。
「おねえちゃん?」
私は隣で寝ているはずの操姉さんにもう一度、声をかけた。姉は3つ年上の美人で頭もよい、まだ幼い私にとってはかけがいのない憧れの女性でもあった。
返事はない。私は少し不安になって、姉の布団をはいだ。布団の中には枕があるだけだ。
いない?
姉が寝ていた場所の敷き布団を触ると、ぬくもりもなく寝ていた気配がしない。
どこへ行ったんだろう?
私はさらに不安になった。
蚊帳をめくって、廊下に出てみた。
青白い月が天高く昇っている。どこかで犬の遠吠えが聞こえた。
一陣の微風に、全身の汗が、さっと引くのを感じた。寝間着の襟元が冷たい。
えも言われぬ、不安。先ほどの寝苦しい暑さはどこへやら、今は全身に鳥肌が立っている。
小学校5年生の私には、理解できない不安だ。
「お便所かな?」
と、姉を探して、廊下の端にある便所に歩を進めた。一歩進むたびに、黒く長い廊下はぎしぎしとうなり、その度に私は心臓が縮む思いでやっと、便所の戸の前に立った。そっと戸を引っ張る。
中は暗く誰もいない。それを確かめると、私は両親の部屋に駆けこんだ。
「おねえちゃんが、いなくなった?」
両親の部屋もからっぽだ。誰もいない。
「おとうさん、おかあさん?」
私一人が取り残された?
この異常事態を祖父と祖母がいる離れに知らせにいくべきか。私は迷いながら廊下に戻った。
そのとき、私の眼は庭から畑の方に釘附けになった。
私の家には、畑と庭の境目に白壁に黒木で作られた、立派な蔵がある。月明かりに照らされて、元々白い土壁が青白く輝いていた。その周りをほのかに蛍が飛んでいる様は、この世の風景とは思えない。私はしばらくその様をじっと見ていた。
「これは夢なのかな?」
ふと、そう感じた。
その土蔵の屋根近くにある、明かり取り用の子窓がぼーっと明るく揺れていた。あれは、たぶん蝋燭の明かりだ。
普段から、好きになれない場所だった。いたずらすると「土蔵に入れるぞ」と脅され育てられ、級友からはあの倉のせいで「お大尽さま」とからかわれてきたのだ。
昼間でさえ、土蔵の中はひんやりして、薄暗く、嫌な臭いがした。私が生まれる前から立っていた大きな蔵だが、生まれてこのかた、父に連れられ一度きりしか入ったことのない、私の忌みする場所。
しかし、今はそんなことにかまってはいられない。
「おねえちゃんやおとうさん、おかあさんはあの中にいる?」
と思うや、裸足で庭に飛び降りると、土蔵に向かって泣きながら駆けだしていた。土蔵の周りは、申し訳程度の生垣で囲ってあり、私はその木々の枝を折りながら門の前に立った。
「なんで、みんなは私を置いていっちゃったんだろう」
そう思うと、涙が次々とあふれる。
倉の鍵がはずされているのを確認すると、迷うことなく、私は開き戸を押し開いた。
とたんにあの嫌な、カビと何かの腐ったような臭いがつんと鼻にきた。
「おねえちゃん? おとうさん? おかあさん?」
と自分に勇気を与えるため、大声で呼びながら中に入って行く。すると、突然、背後から手が私の口を押さえた。
「まさか、どろぼう?」
首を捻ると、そこに立っていたのは父だ。
「おとうさん?」
父は今まで私に見せたことがない、厳しい表情をしていた。しかも、父の目は私を見ていない。
私は父の視線を追って蝋燭の明かりの揺れる影を見た。
白い着物姿の人物がすりこぎを持って、姉を責めていた。それも、尋常な雰囲気ではない。拷問。殴る音が入口まで聞こえてきそうな激しさだ。
「お母さん、あれ、お母さんなの?」
父は無言でじっと眺めている。
両手を吊るされた姉は素っ裸で、猿ぐつわをかまされていた。それでなくても、声はだせなかっただろう。とっくに気絶しているに違いなかった。殴られるたび、姉のカラダは回転して私に今までの凌辱を全てを見せつけた。吊るされ、浮き上がった肋骨から、下に流れる生々しい白いわき腹の線が、まるで吊るされたお魚だ。しかし蝋燭の光でよく見ると、その白い皮膚の腹は青黒く変色するほど殴られている。背中には無数の赤いみみずばれが走っていた。
私は息を飲んで、これからおこる一部始終を眺めた。
着物姿の人は、姉の足を掴み広げると、女の子の大切な場所にすりこぎを――。
その瞬間、気を失っていたはずの姉は、苦痛に意識が戻ったのだろう、目を見開くと、びくんとカラダをのけぞらせた。滴り落ちる汗。やがて真っ赤な血がすりこぎを伝わって、地面に落ちた。
私はつい、からだをよじると叫んだ。
「お母さん、やめて、お姉ちゃんが死んじゃうよ」
和服の人はその声に、ふいにこちらを振り返った。
「鬼だ!」
和服姿の人物は母ではなかった。さらなる恐怖が私の心臓をつかんだ。
私は驚愕して、手足を突っ張らせた。そこには、まさに絵本で見た通りの鬼――般若が立っていた。
鬼が何か言ったが、私はそれを聞きとることができないでいた。ひきつけを起こした私は口からあぶくが垂れたことをかすかに覚えている。
私もまた、気絶してしまったのだ。




翌朝、私のカラダは妙に重く、布団から出られない。昨夜のことは悪い夢だったんだろうか。
「大丈夫? 美智ちゃん」
と、心配そうに覗きこんだ母に私はどぎまぎして、昨夜のことを聞けないままだ。
「夜にどうして倉になんていったんだ?」
と問う父の表情はいつもと変わらぬやさしいものだった。昨夜の厳しい表情はみじんもなかった。
父の話によると、私は倉の前で倒れていたのだそうだ。早朝散歩していた父が見つけ、私を抱きかかえて部屋に寝かせたというわけだ。
「美智は夢遊病の気でもあるのかしら。でも、熱があるようね。今日は学校お休みして、寝ていなさい」
台所から声をかけた母もいつものとおりの母だ。
「操おねえちゃんはどうしたの?」
「操は……操は具合が悪いと言って寝込んでいる」
「どうして一緒じゃないの? おねえちゃんはどこ?」

「お姉さんはお座敷に寝かせているわ。美智、お粥」
「おねえちゃんはどこ!? おねえちゃんに会わせて!」
半狂乱になって叫ぶと、隣のふすまから小さい声が聞こえた。
「美智ちゃん、私は大丈夫よ」
私は布団をはぐのももどかしく、襖をいっきに開いた。
姉が布団に寝かされていた。私の方を見ると、うっすらと微笑んだ。
「おねえちゃん、大丈夫なの?」
「ヘンな美智ちゃん。大丈夫に決まっているじゃない? 美智こそ、学校はお休み?」
操おねえちゃんは、中学校へは行っていない。私はまわりのうちの子供たちが小学校を出ると畑仕事を手伝うのをみていたから、不思議には思わなかった。しかし、姉は別に畑仕事を手伝うことはなかった。うちはこのあたりに広く畑を持っていたけど、それは全て他人に貸していたのだ。
「操、おねえちゃん? 本当に平気なの?」
昨夜の折檻は尋常なものではなかった。
姉は少し顔をしかめると、すぐに笑いながら
「何のこと?」
と、とぼけた。
「昨夜のことよ」
私は大声をあげた。
「また美智ちゃんは夢を見たのね」
そう言いながら、一瞬、姉の顔が曇ったのを私は見逃さなかった。
その声に父が
「美智はまた、悪い夢の話をして。操は過労で倒れたんだ。まったく兄弟して寝込むとは仲が良すぎる」
と父はたしなめているのか褒めているのかわからない文句を言った。
「違う、夢じゃないよ。お姉ちゃんが吊るされて、それで」
アタマがぼんやりしている。吊るされて、それから。
吐き気がした。それから想像を絶することが起こったんだ。
「鬼!」
台所から手を拭きながらあがってきた母も心配そうに私のほうをみた。
「鬼がいたんだ! 鬼! おとうさんも見たよね!?」
私は一生懸命、昨夜のことを訴えたが誰もが何も答えない。私は居間の父と母に向かって叫んだ。
「鬼がおねえちゃんをぶって、それから」
「美智ちゃん、大丈夫?」
母が心配そうに私を寝かせると布団をかけ直してくれた。
「さぁ、もう少し寝ていた方がいいわ」
そう言うと姉との襖も閉めてしまった。
(鬼は本当にいたんだ。おねえちゃんのカラダ、大丈夫なの?)
私は心配と恐怖で布団をかぶって震えていた。
と、とつぜん、布団をはぎとられた。
「ひえっ」
声を上げると、そこには心配そうな父の顔があった。
「お医者さまを呼んだほうがいいのかな?」
父は心底やさしそうにそういった。
「おねえちゃんのほうが」
姉のほうが重傷なのは、父も知っているはずだ。
そう言おうとすると、
「おまえはまた、そんなことを。操はただ疲れたんだよ。寝てさえすれば回復する。おまえのほうが心配だ」
私は大きなため息をついた。昨夜の様子では、姉は歩くのもしんどいはずだ。
しかし、父はどうしても夢にしておきたいのだろう。私はあえて、それ以上の言葉は控えた。
襖を隔てた姉も何も言わない。
私はいつのまにか眠ってしまったらしい。
涼しい風が吹いていた。
額の汗を飛ばしてくれる、そよ風。気持ちいい。薄眼をあけてみると、姉が団扇であおいでくれていたのだ。もう日が高く昇っていた。暑い、夏の一日が過ぎようとしている。
私はがばっと飛び起きた。
「お、おねえちゃん、もう?」
そう言うと、姉は大粒の涙を流しながらうなづいた。両手にはつるされた証拠の黒いあざが残っている。私は眼を見張った。姉は気丈に、
「大丈夫よ」
と繰り返した。
「昨夜の鬼は何?」
「いい、美智ちゃん、昨夜のことは忘れるの。それからもう二度と蔵に行っちゃだめ。いい、お約束して。行くと」
私はごくりと唾を飲んだ。姉の目はじっと私を見つめている。
「今度は美智ちゃんが鬼にやられるわよ」
私は真っ青な顔になったと思う。突き立ったすりこぎが思い浮かぶ。あんなことをされたら、私は生きてはいけない。
鳥肌が立った腕を姉に回すと
「痛かったでしょう、つらかったでしょう、おねえちゃんこそ休んでください」
と言うのがせいいっぱいだった。
それ以来、めっきり姉のカラダは弱くなったように思う。

蔵は私にとってさらなる鬼門になった。それまでも嫌な場所であったが、それにもまして決定的に見ることさえ苦痛の場所になったのだ。

翌年、私は6年生になった。上の学校に進むか、家事手伝いとして家に残るか、どこかへ就職するかの選択をしないといけない歳だ。しかし、私の村は就職口がおいそれと見つかるような場所ではないし、また、働くことはもっと貧乏なうちのすることだと、両親は私に言った。
そのころから、母の私の態度が変わってきたように思う。
「美智は上の学校に行きなさい」
母は毅然とした態度で言い放った。姉さえいけなかった上の学校へ、私が行く? 耳を疑った。
私はけっして成績がいいというわけではない。中の上くらいだ。それなのに、成績が抜群だった姉を差し置いて進学していいんだろうか? 
姉は私の進学を無邪気に喜んで、
「美智ちゃん、がんばって」
と応援するそぶりをみせてくれた。
しかも。
「美智は白銀女子中等学校の寮に入るのよ」
と母の厳命だ。だめだ。あんなお嬢様学校、試験で落ちるよ。そう思った。なにより全寮制では息がつまりそうだ。
「安心なさい。寄付金次第で受かるのよ、あそこは」
そう母はにやりと笑った。
私の入学と引き換えに家の田畑の一部を手放した。
入寮の日、両親がついてきたが、姉は体調を理由に家にいた。
白銀女子中等学校は全寮制の由緒ある中学校で都市郊外にある。そこで、勉学としつけを学ぶのだ。私立で校則は厳しく、各地のお嬢様が集まることで有名だった。
そんな学校で、田舎育ちの私はたちまち浮いた存在になってしまった。
「帰りたい」
私は日曜日のたびに心底、そう願った。つらい思いを手紙にしたためたところ、しかし、家からの手紙は母の達筆で、
「帰宅は許しません。姉の分まで研鑽に励むこと」
と厳しい内容のものが却ってきたのだった。
姉からの手紙は一通もない。やはり、自分は家にいて、進学した私を怨んでいるのだろうか?
邪推が頭をもたげる。
そんなことないよね?
夏休みが待ち遠しい。
私は夏休みになると、一目散に寮を飛び出し、実家へ戻った。
「ただいま!」
駅には父が待っていてくれた。それはありがたかったが、私は姉に会えることを心待ちにしていたのだ。
「おねえちゃんは?」
このあたりでは珍しい自動車で迎えに来てくれた父が道々話してくれたところによると、姉は体調がすぐれず、寝たきりになっているという。
「どうして、そんな大切なこと、私に知らせてくれなかったの?」
と問い詰めると、
「おまえの勉学の妨げになるから知らせるなと、操が止めたんだ」
運転中の父はこちらを見ずに言った。
姉ならありうる。私に気を使ってくれたんだ。私は一刻も早く姉に会うために父をせかした。
乾いた道の両脇に、稲穂の緑がみずみずしい。ちょっとの間だけ見なかったが、私はこの田園風景を絶対忘れまいと思った。それくらい、私はこの土地を、姉を愛していた。
家に着くと、転がるように姉と私の部屋だった場所に行く。
姉はこの暑いのに布団にくるまって寝かされていた。
「おねえちゃん!」
と入っていくと、姉はゆっくりこちらを向いた。
「眠っていたの? おこしちゃったかな」
枕元に座わると姉は少し微笑しながら
「おかえりなさい、美智」
と小さな声で言った。
「おねえちゃん、やっぱりあの鬼のせい?」
私も小声で言うと姉は弱々しく首を振ると
「忘れなさいっていったでしょう? 私はもう体力がないのね。学校へ行ってもどうせだめだったわ。美智ちゃんはわたしの代わりにがんばって」
「そんなことないから!」
私は流れ出す涙をこらえきれずに言い募った。
「美智ちゃん」
肩に手がかかる。細くて白い手だ。私はその手を握り返した。
「ほらほら、美智は挨拶もしないで、おねえちゃんにかかりきりだね」
母が微笑しながら、私の手を取ると、姉の傍を離れるように促した。
そのときだ。
「美智は、操とは違うんだから」
ぽつんとつぶやく母の声に、疑問がもたげた。
「何? いま、なんておっしゃったの?」
母は笑ってごまかすと、新しい私の部屋に案内してくれた。そこは6畳の和室で、もともとは客の寝室として使用していた部屋だ。窓を開け放つと、蝉しぐれの中、青々と茂った庭の木々が見渡せた。
蔵は反対方向にある。これはうちの人たちが気を利かせてくれたに違いない。
蔵。2年前、鬼がいたんだ。あの鬼はどうなったんだろうか?
姉はまた折檻されたんだろうか……。

ひとりで寝るのは久しぶりだ。寮では四人部屋である。
蚊帳の中で、開け放した窓から蛍の光の点滅が見えた。あのときのままだ。
と、何か、物音がする。
最初は気のせいかと思った。しかし段々、大きくなってきた。
赤ちゃんの泣き声だ。昼間は蝉しぐれで聞き取れなかったのか?
「赤ちゃんがいる?」
私は不審に思って、そっと戸を開けて、廊下へ出た。庭中の木々に蛍が飛び交っている。
「赤ちゃんの声?」
私は廊下をそろり、歩き出した。
(つづく)

★以下、近々出ますiアプリ、「オチャコミ」にて発表予定です! 掲載版は各所に修正が施された
完全版です。



トップに戻る